大切な約束だから
先日、門徒さんから、お孫さん方の受験の関係で27回忌が難しいので、25回忌として執り行いたいとの相談がありました。受験だから参加しない、ではなく、どうしたら参加できるかを考えられての事。いい事ではありませんか、とお話しました。
ふと、何で法事をやらねばならないのかな、と考えてみました。
他宗の場合は追善供養です。亡くなった人が迷わないように、お浄土に行かれるようにと、遺された者がつとめます。
これは運動会のかけっこで、ちゃんとゴールできるように、と、ギャラリーである家族が応援してる状態です。
ですが、浄土真宗では、亡くなられた方は既にお浄土にいらっしゃいます。仏様となられています。ですから、応援しなくても迷う事などないわけです。
だったら、法事なんかしなくていいんじゃないのかな、と思いませんか?
以前、生まれて間もない子どもさんを亡くされた方がいました。「兄弟達にはこれからもまだいろいろな事をしてやれるけれど、亡くなったこの子には、もう何もしてやれないんです。それなのに浄土真宗は追善供養はしない、亡くなった人の為にはしない、というのは、何だかおかしくないですか?」と訊いてきた方がありました。
私はその方に、今はどうぞ思いのままに手を合わせてください、と申し上げました。それから何年か経った時、その方がこう仰いました。
「子どもの為にと毎日手を合わせていたのですが、気づいたらそれは『私自身の為』だったのですね。追善供養をしない、とは、こういう意味だったのですね」
そうなんです。お子様は、まさにまさに、それを気付かせる為に生まれてきてくれた仏様のお使いだったんですね、と申し上げました。
浄土真宗のご法事は、亡くなられて仏様となられた故人との大切な約束を確認する時なのです。
どんな約束でしょうか?
それは『み仏の御名を呼べば救われるという事に気付いて、後から私と同じお浄土にいらっしゃいね、先に行って待っているからね』という約束です。
迷いの多い『私』を、応援してくださっているのは仏様の方なんですね。