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蓮如上人御一代記聞書19
「聞きうる人はまれなり」

あるとき、蓮如上人はこうおっしゃったよ。

御一流の義を承りわけたるひとはあれども、聞きうる人はまれなり。

親鸞聖人が示してくださった浄土真宗の教えを聞き知っている人はいるけれども、自分自身の救いとして聞くことができる人はほとんどいないとおっしゃるんだ。

僕たちはこうしてお寺で聴聞を重ね、み教えについて学んでいるね。初めは仏さまもわからず、念仏も信心も、さっぱりわからなかったけど、聞いていくうちに少しずつ、知識として分かってくる。これが「承りわけたる」ってことで、これはこれでもちろん大事なことなんだけど、蓮如上人は、そこでとどまってしまってはいけないぞとお示しくださっているんだ。

例えば、「阿弥陀様は十劫の昔にさとりを開かれました」と教わるよね。これは知識としての理解。でもそれを、「へえ~、そうなのか」と軽く聞いていては、聞いてることにならないんだ。阿弥陀様は誰のためにさとりを開かれたの?十劫昔って、どういう意味があるの?って、もう一歩進んで考えてほしいんだ。

阿弥陀様は、僕たちと関係ないところで勝手に仏に成ったわけじゃない。一人、また一人と地獄に落ちていく僕たちを見て、涙を流し、何とかして救いとってやりたいと仏になられたの。誰のためといって、それは僕たちのためなんだよ。

そして、仏に成られてから、十劫もの時が経過している。十劫の間、「どうか聞いておくれ」と僕たちに呼び掛け続けているわけ。逆に言えば、僕たちは十劫もの間、阿弥陀様に気づきもせず、無視し続けてきたってことになる。阿弥陀様の救いに、知らん顔して、拒否してきたのが僕たちの姿さ。それは、本当に申し訳ないことだし、恥ずかしいことだよね。

こうして自分自身の問題として、自分の本当の姿や、この自分にかけられた仏さまの願いを聞くことが、仏法を聞くということなんだよ。

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