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月が綺麗な時

 英語教師をしていた頃の夏目漱石が「I love you」を「我君を愛す」と翻訳した教え子に「日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですね、とでも訳しておけ」と言ったという逸話があります。とはいえ、それを示す文献がなく、都市伝説とも言われていますが。
 私はこの話を聞いた時、「刑事コロンボ」の「My wife」を「うちのかみさんがね」と訳した額田やえ子さんと同じくらいステキだなぁと思いました。きっと刑事コロンボも「うちのかみさんがね」でない訳がついていたら、あんなにヒットしなかったのではないかと思っています。
 アイラブユーの「愛」は、当事者の二人が見つめあっているイメージです。恋は盲目と言われる程、社会が認める唯一の狂気ですから見つめ合って良いのですが、二人で見つめる先が違う気がするのです。
 恋する当事者同士で見つめ合うのではなく、二人で見つめる先に綺麗なお月様があったらステキじゃないですか?
 更に言えば、片方が、月が綺麗だね、と言いましたら、綺麗だね、ともう片方も同じ思いだと言う事はありません。同じ方向を向いて同じ事に心が揺さぶられる。きっと夏目漱石は、そんな日本人の『こころ』を翻訳したらどうかと教えたのかもしれません(『こころ』も代表作ですね)。できることなら、大切な人とは同じ方向を向いていると幸せです。それは生きる拠り所が同じと言う事です。
 数ある翻訳家の中でも、やはりダントツなのは親鸞さまでしょう。
 親鸞さまは本願念仏の教えがお釈迦さまから七高僧を経て、ご自分にまで正しく伝えられてきたことを、ご自身が深い感銘をもって受けとめられました。そしてそれを「正信偈和讃」として後の世の私たちに伝えてくださいました。言わば正信偈和讃は「いのちのうた」です。
 月が綺麗な時、誰かにそれを教え、感動を閑かに共有したくなります。親鸞さまの教えもまた、誰かと閑かに共有したくなります。
 月が綺麗な時、月がなぜ美しいかを論じる必要はなく、ただ綺麗だね、と見上げるだけでよいのです。身近にいる大切な人と、亡くなった大切な人と、親鸞さまと、阿弥陀さまと、ただただ一緒に見上げるだけです。

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