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蓮如上人御一代記聞書41
「罪の沙汰無益なり」

 あるとき、弟子の順誓さんが蓮如上人にたずねられたよ。
「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生すべき身に定まると上人の書かれた御文章にありますが、いま上人は、命のある限り罪はなくならないとおっしゃいました。御文章のお示しと違うようですが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」とね。
 すると上人はこう答えられたよ。

一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり

 つまり、信心がおこったそのとき罪がすべて消えるというのは、信心の力によって往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげにはならない。だから、罪はないのと同じだという意味なんだよとね。そして続けてこうおっしゃった。

罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり

 罪を消してお救いくださるのであろうとも、罪を消さずにお救いくださるのであろうとも、それは弥陀如来のおはからいである。わたくしたちが罪についてあれこれいうことは無意味なことなんだよとね。
 浄土真宗の法話は、聞けば聞くほど我が身の罪が知らされてくる。すると、「こんな自分じゃ救われないんじゃないか」「罪を消さないといけない」って、罪深い自分を直そうとしはじめる。でも阿弥陀様は「罪を消してこい」とも「ダメな自分を直して来い」ともおっしゃってないの。罪深いまま、ダメなままで出てこいとおっしゃってるんだ。
 罪深い自分であることは、知らされたらそれで終わり。その後罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを問題にすべきで、罪の沙汰より信心の沙汰をしなさいと、蓮如上人はお示しくださっているんだよ。

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