別れの時

 先日、ある御縁の方がお亡くなりになりました。
 ご法義を大切にされ喜ばれていた方でしたが、晩年は体調が芳しくなく、お聴聞に来ることが難しくなりました。訃報の連絡がご家族からありましたが、大変驚く内容でした。一月ほどまえに亡くなったこと、事情があって他宗旨でお葬儀を行ったことを告げられました。すでに故人となったその方のお顔が浮かびましたが、まさか、お念仏のない葬送になるとは思ってもいなかったことでしょう。
 家の宗旨がよく判らなかったので、他の宗旨でお葬儀を出しましたが、よく調べてみたら浄土真宗でした、とか、「近くに浄土真宗のお寺はない」と葬儀社に言われて仕方なく遠方のお寺に頼みました、など仏事相談に来る方からはそれぞれの事情を聞く機会は多岐にわたります。しかし、冒頭の方のケースは初めてでした。
 最近はコロナ感染のこともあって大勢の方が集まる葬儀は少なくなりました。それでも、少しでも亡き方の遺徳を偲びたいと苦心されるご遺族も多くおられます。
 葬儀は亡くなった本人自身は何もできません。事前に互助会などに入られていて準備なさっていても家族が「葬儀不要」として葬儀を行わないなど、本人の意思が家族に伝わらないケースもあるようです。
 親鸞聖人は「それがし閉眼せば、賀茂川の魚にあたふべし」と遺言なさった、と伝えられています。聖人のおこころは立派な葬儀か否かによって往生の良し悪しが決まるのではない、ということですが、実際には多くの門弟に見送られました。
 そこには大きな惜別の思いで見送る人たちと、いよいよ浄土に往生されることをよろこばれた聖人のおこころがひとつになって、お念仏の声が途切れることがなかったことでしょう。
 お念仏に出会えたことを喜び、お浄土に生まれることを喜ぶ人生の後姿にお念仏の声が絶えない今生の別れでありたいと願うばかりです。

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