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無眼人 無耳人

 先日、有難いことにご門徒さんからのお土産が届きました。北海道函館にご旅行され、わざわざこちらにまで送ってくださったのです。そして、さらに嬉しかったことは「せっかく北海道まで来たので別院にお参りしてきました」という尊いお気持ちでした。
 初めて訪れた土地でも浄土真宗のお寺があるとどこか安心できる気持ちになります。知らない土地の方が長い間、お念仏を護ってくださっていたのだな、と安堵することができるからです。
 浄土真宗のお寺は観光的建物ではありません。何となく何百年も在り続けることは絶対にありません。それは、自分の住む土地でお念仏を護り続けていく中心がお寺であったのです。ですから、お念仏が途絶えてしまえばお寺もその存在を失います。今後、地方にあるお寺(浄土真宗に限らず)は減少の途をたどることになりそうです。それは、その場所に教えや念仏を護る人がいなくなってしまうことを意味します。誠に悲しい現実です。
 さて、教えをいただく側の私たちは実に自分中心です。「私はそうではありません」とお叱りを受けるかもしれませんが、仏さまの側から見渡せば例外なくそうなるのです。それは、この世の中(娑婆世界)で生きることは自分の都合が最優先されるからです。さらにそれは、自分に都合のよいものを見て、都合のよいものだけを聞いてゆく姿になるのです。仏法聴聞とはこの自分中心の姿を浮き彫りにして気付かせていただくことですから、苦痛に思う人もあることでしょう。
 仏さまの教えを疑い、見えながら見ることをしない人を無眼人(むげんにん)と言い、聞こえながら聞くこともしない人を無耳人(むににん)というのです。この無眼人、無耳人は他ならぬこの私なのです。その姿であるからこそ救おうとされ続けてされる阿弥陀様のご苦労に生きている間に気付き、感謝のお念仏を称えさせていただくことを喜ばせていただきましょう。

大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ
      「浄土和讃」

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