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仏法は聴聞にきはまる

 蓮如上人は、『御一代記聞書』(第一九三条)に
「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]
 と示されています。柔らかな水が硬い岩を穿ち貫徹していくように、己を空しくして如来の仰せを聞き続けている人は、如来のお慈悲のはたらきによって、本願のお言葉を、素直に受け容れられるようにお育てくださるから、「仏法は聴聞にきはまる」といい切られています。
 浄土真宗では古来より、このように「聴聞」の大切さを示されていますが、私たちが日々食事をいただくと同じように欠くことのできないものにはなりません。
 娑婆世界を生きることは日々の生活を背負って我が人生を歩んでいることでもあります。その人生には「煩悩」という人間という生きものの本来備わっているものを切り離すことのできないものとの二人連れです。
 それを「仕方なし」と考えるか煩悩の姿に「向き合うか」は縁の次第によるところです。
 好むところでなくても病気などにより入院を余儀なくされる方もあると思います。重篤の場合を除いて、多くの方が「退院したらこうしたい」と考えるでしょう。そして、このような窮屈で不自由な毎日は懲り懲り、と思うはずです。でも、その不自由な毎日こそが私の本質に向き合う大切な時間であると考えてはいかがでしょうか。
 生老病死から逃れることのできない私たちには、病もまた大切なご法縁であると受け止めたいと思います。
 仏法聴聞はこの私が信心を揺るがないものにすることであり、信心が揺るがないとは仏法聴聞を大切にする私にさせていただくことなのです。
 硬い岩とは我執という煩悩であり、その岩に穴を空けるのが仏法の水であることを有難く頂戴したいと思います。

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