父母孝養の念仏
親鸞聖人は『歎異抄』第五条に「親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候(そうら)はず。そのゆゑは、一切の有情(うじょう)はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり」と示されました。
「私は父や母の追善供養ために念仏申したことは一度もありません。そのわけは、すべての生きものは、みな果てしもない遠い昔から、生まれかわり死にかわり、無数の生存を繰りかえしてきたものです。そのあいだには、お互いに、あるときは父ともなり、母ともなり、またあるときは兄ともなり、弟ともなりあったことがあるにちがいありません。」と言われたのです。これは、「追善供養」という、その時代では一般的な考え方の転換です。
その理由として親鸞聖人は生きとし生けるものはすべて、繰り返し生まれ、あるものは父にまた母になり、兄弟や親族となって私の縁に連なっていること。その多くの「いのち」は私が浄土に生まれることを願う意味を示してくれる「いのち」であること、とされたのです。仏教には輪廻転生という生命観が存在します。死してまた生じ、また死しては生じる縁のなかにある「いのち」だといわれます。
最近では、「死んだら終わり」と考える人も少なくありませんが、何代も前に生きた先祖にはわずかでも思いを寄せるのではないでしょうか。
そして、その一人ひとりがいのちの転生を繰り返していたことを思うとき、最早、私の思いが遠く及ばない縁のなかにあることを知るばかりです。
さらに、今、私が称えている念仏ですが、それは私のものではないのです。阿弥陀如来が私たちを救う手だてとして、私たち一人ひとりに与えてくれたものです。それが本願の念仏です。
阿弥陀如来は「どうかご本願を受けとめて浄土に往生して欲しい」と願われています。それを「追善供養」という心持ちで自らが造った善根功徳のようにして、「〇〇のために」と念仏申すのだとしたら、阿弥陀如来の仏意に背くことになってしまいます。
多くのいのちが私が浄土に生まれるための縁としてはたらき続けていることを有難く頂戴したいと思います。