聴くと聞く

 浄土真宗ではみ教えを聞くことを「聴聞」といいます。この聴聞をとりわけ大事にしてきました。換言すれば聴聞することが浄土真宗の姿といえます。
 浄土真宗のお寺の本堂では外陣が広くとってあります。これは、多くの方に聴聞していただくために古来からそのようになっているのです。聴聞するために本堂があると言ってもよいでしょう。
 さて、私の主治医は健康診断の際には必ず聴診器で丁寧に診察してくださいます。「最近の若い医者はパソコンのデータばかりで聴診器を当てないんだよ」と仰ってました。この聴診器の「聴」は「こちらからききにいく」という意味があるそうです。まさにお医者さんが患者さんの体のなかに異常がないかを「ききにいって」いるのです。
 親鸞聖人もお使いになったといわれる最古の辞典『説文解字』には「往くを聴といい、来るを聞という」と示されています。「聴とは出かけて往(い)って聴くことであり、聞とは聴いて知らされたことが来て心に受ける」と解説されています。
 では、何をきくのでしょうか。親鸞聖人は「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と示されました。
 阿弥陀さまがなぜ本願を起こされたかを聞きなさい、そして疑いの心を振り捨てなければなりません、それが聴聞する肝要です、と仰っておられます。
 逆にいえば、疑いの心を持ち、肝心なことを聞くことのできない私に阿弥陀さまが本願を起こしてくださったのです。
 それを誰がいつ聞くのか、というとただ今に、この私がきかなければならないのです。
 そのためにお寺があることを述べましたが、今年はコロナ禍にあって、お寺での聴聞が縮小されています。いのちがけで聴聞されてきた多くの先人に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 「聴聞」の漢字のご左訓に「ユルサレテキク シンジテキク」と示された親鸞聖人のおこころを味わいながら、これからも聴聞を、また聴聞の場を重ねさせていただきたいと思います。

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