わが弟子

 先日、散歩の途中に街角の不用品集積所に目をやると、中学受験の参考書が山積みされていました。三月ですからすでに入学試験は終わっています。受験勉強のために大切に使ってきた参考書も、その試験が終われば「お役御免」ということなのでしょう。
 運転免許取得のための勉強は実際に運転するようになっても身につけておかなければならないことがたくさんありますが、受験のために勉強したことが後々どういう成果をもたらしたかについては自信がありません。
 さて、親鸞聖人の門弟に信楽房という方がおりました。浄土の教えを学ぶために親鸞聖人お弟子に加えていただくことになりました。しかし、聖人の教えを深く理解できないことから異をとなえて遂に門弟を離れ、郷里に帰ることになりました。
 この事で門下の蓮位房が、親鸞聖人が授けた御本尊や聖教は取り返すべきではありませんか、と進言したところ、親鸞聖人は「決して取り返すようなことをしてはなりません。親鸞は弟子一人も持っておらず、みな如来様のお弟子であり、ともに同行なのです。御本尊と聖教は衆生利益のために如来様がさし向けてくださった方便なのですから、自分のものであるかのように勝手に取り扱うべきではないのです」と申されました。
 さらに「如来様の教えは、すべての人に行きわたるようにという願いをこめて与えられているものです。親鸞が憎いからといって、私の名の書いてある聖教を、山野に捨ててしまうようなことがたとえあったとしても、その地で、その聖教にふれたものには、たとえ畜生であっても仏縁をむすんでくださるにちがいありません」と示され、知らないうちに「私」や「自分」が聖教をよみ、念仏をとなえているように思う驕慢なる心を戒められているのです。
 『歎異抄』第六条の
「専修念仏のともがらの、わが弟子、人の弟子という相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたず候ふ」
という一文は実際に自分の元を去った弟子へのお心を通したことだったのです。

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