蓮如上人御一代記聞書5
「口も心もひとつなり」
ある人が蓮如上人に「念声是一(ねんしょうぜいち)」ということがわかりませんとおたずねになったよ。
この「念声是一」というのは、念は心に思うこと、つまりここでは信心のこと。声とは口に称える称名念仏のことをいうよ。その昔、法然上人が書物に残された言葉なんだけど、心に思う信心と口に現れる念仏が同じというのはどういうことなんでしょうか、との質問だったんだ。
それに対して蓮如上人は、こう答えられたよ。
おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なりとこころうれば、口も心もひとつなり。
おもい内にあれば…というのは、みんなも経験あると思うよ。「勉強しなさい」といわれて「はい」と返事をしても、それがよしやるぞって思って言っているものなのか、嫌々言ってるものなのか、まわりの人にはよくわかるね。これがいろが外にあらわれているということなの。イライラして貧乏ゆすりをしたり、待ち遠しくてソワソワしたり、そんなのも心のあらわれだよ。
阿弥陀様の信心をいただくこともこれと同じ。いただく信心の体、つまり本体が南無阿弥陀仏で、それが私の口に現れたものが南無阿弥陀仏の念仏だから、信心も念仏も南無阿弥陀仏一つなんだと蓮如上人はお示しくださっているんだ。
そもそも、南無阿弥陀仏は僕たちが作ったものではなかったね。阿弥陀様が作り上げ、僕たちに呼び掛け、届けてくれたもの。その南無阿弥陀仏が信心となり、念仏になっている。たとえていうなら、一人の男の子がはじめは「息子」だったのに、結婚して「夫」になり、子供が生まれて「父」になり、その子に子供ができて「おじいさん」になる。呼び名は変わっても、もともとの男の子に変わりはないね。同じように、阿弥陀様の手元で仕上げられた南無阿弥陀仏が、阿弥陀様のところでは呼び声になり、僕たちに届けられて信心になり、口に出てきて念仏になっているわけ。だから信心も念仏も、同じ一つの物なんだよ。