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入道雲むくむく

 入道雲がむくむくと育つ夏が終わろうとしています。
 子どもの頃は、夏休みの夢の中で宝探しの旅に出ていました。夢がむくむくと育ち、やがて入道雲を覆うほどになる頃、宿題という現実に戻され、新学期が始まると、入道雲の夢は小さな小さなうろこ雲に変わっていってしまうのです。
 豊かな森の春は、まず小さな草花が芽を出し、地べたを緑に染めてから、中位の木々が芽吹き、その木々が生い茂ってから高い木々が芽吹いていきます。高い木々から先に芽吹いてしまっては、その陰になった低い木々や小さな草花は育ちません。
 私が子どもだった頃は、我が親のみならず、周りの大人たちはある意味『豊かな森の高い木々』だったように思います。ですが、私自身が子どもたちにとっての『豊かな森の木』であったかどうかはわかりません。時々、子どもの誰かが帰ってきて、大学生の末っ子と団欒している姿を見ると、あれー、コレ懐かしい風景だなぁ、と思うのです。
 私は子どもたちを沢山沢山叱りました。褒めて育てよう、とか、感情的にならずに叱る、とか、『わかっちゃいるけど出来っこない』でした。カッカカッカするから『かあさん』なんだよと思っていました。
 長い夏休みが終わり、子ども達が新学期になってからやっと、自分にも少し余裕が出来てきます。そして夏休み中に『子どもの為に』といろいろ言っていた、子どもにしては少々キツイ言葉の数々は、果たして本当に子どもの為であったのか?自分自身の思いを押し付けていただけなのではないだろうか?子どもを私物化してないだろうか?と考えたりしたものでした。
 子どもは私の『もの』ではありません。仏様からの預かりもののはずです。それは仏様からの願いがかけられている『いのち』であるということです。
 今、大きくなった我が子たちが、たまに見せる懐かしい姿に、夏休み中の沢山の笑い声を思い出します。
 私自身は『豊かな森の木』になり損ねたままですが、仏様の願いがかけられているのは、子どもに限らず、私もまた同様なのだと気づく時、私の中で、子どもの頃のあの入道雲がむくむくワクワクと大きくなっていくのです。

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