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どこから来たのか

 初めてお会いした方とは「あなたはどこからおいでになったのですか」という会話から始まることが多いと思います。「〇〇から来ました」という答えに「そうですか、家内の郷里が〇〇です」「それは奇遇ですね」などと話が弾んだりします。
 しかし、これが禅問答になると、少し難しくなってきます。
「そなたは何処から参られたか」「某、〇〇よりこの地を訪れた」「そのようなことを聞いているのではない」と大喝されるのです。
 そうなのです。私は一体どこから来たのでしょう。どのように思い出そうとしても答えは出ません。それどころか、そのような問いを発することなく、目の前の出来事に一喜一憂する日々を送っているのです。
 良寛禅師は次のような漢詩を残しています。
我が生、何処より来たり
去って何処にかゆく。
独り蓬窓の下に坐して
兀兀と静かに尋思す
尋思するも始めを知らず
焉んぞ能くその終わりを知らん
現在亦また然り
展転として総ては是れ空
空中にしばらく我有り

(わたしのこの生はいったいどこからきたのだろうか。そして、どこへ去っていくのだろうか。独り、草庵の窓辺に寄って、
静かに思いを凝らして考える。考えても考えてもその始まりは分からない。まして況んやその終わりは分かるものではない。この現在という今もまた同じように分かるものではない。過去も現在も未来も移り変わるもので、みんな空(くう)なのだ。その空の中に少しの間だけわたしが在るだけなのだ)

 では、この娑婆世界の私たちは何のために居るのでしょうか。深い仏縁に恵まれた私たちは阿弥陀さまの願いを聞きひらくための他はありません。
 どこから来たのか答えを知らない私ですが、「私の願いを信じて浄土に往くことをよろこびなさい」という阿弥陀さまの導きを疑いなく頂戴することが出来た時に、「どこに行くのか」の答えに迷うことがなくなるのです。

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