選択本願

 今年も報恩講の時期を迎えました。全国津々浦々でお念仏が響くことでしょう。
 しかし、声高らかにお念仏申そうと思っても、以前のようにお念仏が出なくなってしまった方もあることでしょう。
 また、威儀を正して仏前に参ろうと思っても座ることさえままならなくなってしまうことに嘆かれている方もおいででしょう。歳を重ねることの厳しさというより、生きていくことの厳しさというべきでしょうか。
 法然聖人が専修念仏をお示しくださったのは、善導大師の『観無量寿経疏』のなか「散善義」に、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文に会ったことによるのです。
 お念仏を称える私に対して「〇〇しなさい」がないのです。どこでも、だれでもできる念仏を示されたのです。
 日頃、仏前で正座して式章をかけて、お念珠を持ってお念仏しています。しかし、その姿は問われません。お念仏称える数も問われません。このようにしてお念仏させていただく道を「易行」と申します。
 法然聖人は晩年に『選択本願念仏集』を著されました。「選択」(※浄土宗では「せんちゃく」と呼び、親鸞聖人は「せんじゃく」と呼ばれた)とは選びとる、という意味です。
 一方で「選捨」がはたらきます。こちらは選び捨てられる、ということです。選ばれるものと捨てられるものがあるのです。
 選びとられたものは「念仏一行」であり捨てられたものは「自力の諸行」でした。
 私の都合で選んだり捨てたりするのではありません。阿弥陀如来の願いとして『大無量寿経』に第十八願が示されています。
 いつでも称えることのできるお念仏には、この私を見据えて他力の信を与えてくださったのでした。

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