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蓮如上人御一代記聞書26
「聖教は句面のごとく」

みんな、おつとめで使っている聖典を開いてみようか。たくさんのお経が記されているね。これを読む時には注意しなきゃいけないことがあるよ。
蓮如上人は、

聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。

つまり、お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もないとおっしゃっている。
そもそもお経は、お釈迦さまのお説教を文字にしたものなんだ。その冒頭には「如是我聞(にょぜがもん)」、つまり私はこのように聞きましたと書かれている。お釈迦さまのお言葉を聞いたとおりに記しましたということを、高らかに宣言しているわけ。
2500年前、インドで説かれたお釈迦さまのお説教が文字にまとめられて、長い時をかけて中国にわたり、それがはるか日本にまで届けられたのがお経なんだ。その間にはシルクロードという砂漠もあれば、海もあるね。先人たちは、それこそ命がけで伝えてくださったんだ。そう考えると、お経の一文字だっておろそかにはできない。大切に読ませてもらわなきゃいけないんだよ。
そのあと蓮如上人はお聖教をどう読めばいいかを教えてくださっている。

聖教は句面のごとくこころうべし。(中略)私にして会釈することしかるべからざることなり。

僕たちは、自分の理解を超えた話を聞くと、自分が納得できるように内容を変えて理解しようとすることがあるね。「阿弥陀様の救いは、悪人が目当てです」と聞くと、わざと悪人になって救われようとしたり、いや、悪人の私が心を入れ替えて善人になって救われるのだと思ってみたりする。
でも、そういう聞き方は間違いなの。句面のごとくにこころえるっていうのは、「ああ、私は悪人でありました、救いようのない私だったんだ」と知らされ、この私が目当てで阿弥陀様が願いをたてられたと聞かせてもらうこと。自分勝手に解釈しちゃいけないと、蓮如上人は教えてくださっているんだよ。

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