土曜法座 特別講座1

 蓮如上人と
 「猟すなどり章」

土曜法座特別講座1

蓮如上人と「猟すなどり章」

老僧 珍念や、蓮如上人を知ってるかね。
珍念 え?もちろん知ってますよ。本願寺の8人目のご門主でしょ。教念寺の本堂でも、内陣の左側に掛け軸かかってますから。でもね、ご門主ってこれまで25人もいるのに、なんで蓮如さまだけ大事にされてるんだか、そこがわかりません。
老僧 確かにそうじゃな。けど、それほどすごい功績があった方なんじゃよ。蓮如上人は室町時代に生まれられた。それまで本願寺は小さなお堂のような大きさで、参詣の人もなく、寂さびとしてたんじゃ。けど、蓮如上人のご活躍で、近畿・北陸・東北に至るまで門信徒がふくれあがり、本願寺の繁栄が築かれたんじゃよ。

蓮如上人は、本願寺第8代宗主です。1415(応永22)年2月、第7代存如(ぞんにょ)上人の長男として京都東山大谷でご誕生されました。
上人は近江や北陸地方にて浄土真宗教学の研鑽や教化活動の青年期を過ごされ、1457(長禄元)年に存如上人ご往生のあとを承けて43歳で本願寺の法灯をご継職されました。
蓮如上人以前の本願寺は、わずか三間四面(18畳)しかなく、参詣者も少なく不振を極め、経済的にも大変厳しい生活を余儀なくされました。17歳で得度され、27歳で結婚。長男と3人暮らしでしたが、食事が一度だけ、あるいは全くない日さえあり、その食事も一杯の汁を水で薄めて3人分にされるなど貧困を極めます。読書するにも灯油が買えず、薪を使われたと伝わります。

珍念 ふ~ん、随分ご苦労されたんですね。ちょっと想像つかないや。でも、教えを伝えること、信者を増やすことってそんな簡単じゃないですよね。一体どうやったんだろう。
老僧 そこじゃよ、珍念。蓮如上人のご布教には3つの特徴がある。まず、御文章を書かれて門信徒たちに直接語りかけられたこと。そして南無阿弥陀仏の名号を広く配られたこと。もうひとつは正信偈和讃の勤行を勧められたことじゃ。今も法話の後には蓮如上人の御文章を拝読するし、朝夕のおつとめは正信偈和讃を勤めるが、これは蓮如上人が作られた伝統なんじゃよ。そうして浄土真宗の教えは日本全国に、そして門信徒の心の隅々にまで広まっていったんじゃ。

蓮如上人は各地の門徒あてに、親鸞聖人のみ教えをわかりやすくお手紙の形式でつづった『御文章』を多く記されました。その数は現存するだけでも二百数十通にのぼります。また、人びとに「名号(御本尊)」を下付されました。それまで仏さまならなんでもいいと思っていた人々に、浄土真宗の本尊が阿弥陀様であること、そのお名前、南無阿弥陀仏が何より大切であることを示されたのです。
各地の法会では『御文章』が拝読される様になり、読み書きのままならない民衆にもみ教えが広まりました。ご門主から直々のお手紙を読まれるわけですから、その効果は絶大でした。
上人は親鸞聖人の記された『正信偈』『和讃』を開板(印刷)し、現在の真宗門徒の日々のお勤めのもととなるかたちを定められ、また『正信偈大意』、『正信偈註』、信仰生活の規範を示した「領解文」を記されるなど、上人のご功績により浄土真宗のご法義は飛躍的に広まりました。上人は「浄土真宗中興の祖(ちゅうこうのそ)」と仰がれています。

老僧 では、その蓮如上人の御文章のひとつを味わってみようかの。珍念、手元の御文章を開いてみなさい。今日は「猟すなどり章」(一帖第三通)じゃ。

まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。
(浄土真宗の意は、必ずしも悪心や妄念、妄執をとどめよというものではありません)

老僧 まず最初に、浄土真宗の信心が、煩悩を離れて清らかな心になることではないことを説かれているな。
珍念 え!?そうなんですか?仏教って仏になる、つまりさとりを開くための教えですよね。仏になるには煩悩をなくさなきゃいけないって、聞いたことありますよ。
老僧 そうじゃな。仏教は煩悩をなくすための教えで、そのために厳しい修行をする教えでもある。そして、「諸悪莫作・衆善奉行(しょあくまくさ・しゅぜんぶぎょう)」(悪いことをするな、善いことをせよ)と教えておる。もちろんできることならそうすればいいんじゃが、わたしらには善はなかなかできんし、悪もやめられん。修行などもちろんできやせん。だから浄土真宗では、悪い心も間違った考えもやめなさいとはおっしゃらないんじゃ。

ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。
(なぜならば、商売をしたり、主人に仕えたり、狩猟や漁業などの、さまざまな職業をもって生活する私たちだからです。とはいうものの、仕事だけを生きがいとし、金銭のみをむさぼることは、あきれるばかりにあさましく、虚しい生き方なのです。このような私たちのために、阿弥陀仏や本願を建ててくださったことを、大切に受けとめて、ひと筋に信じ順うところに、おたすけは恵まれます。)

珍念 えっと…、「すなどり」ですか?砂?鳥?
老僧 すなどりとは、魚を獲る漁のことじゃ。獣を獲る猟も魚を獲る漁も、生き物の命を奪う、つまり殺生をこととする仕事じゃ。今ではそんなことはないが、当時は罪深く、卑しい仕事としてさげすまされる向きもあった。
しかしどんなにさげすまれても、生きていくためには仕方のないことじゃ。だから、それらの仕事や暮らしを捨てる必要はないこと、そんな罪悪深い私たち凡夫を目当てにたてられたのが阿弥陀仏の本願であることをお説きくださっている。心強いことじゃ。
珍念 罪悪深い凡夫が目当てなんですか。でも、「私は罪悪深重です」って開き直ってるように思いますけど。そうはいっても、少しは努力していい人になった方が、いいんじゃないですか?
老僧 開き直ってるわけじゃないぞ。自分自身を「あさましい、恥ずかしい」という思いは開き直りとは違う。もちろん、努力して仏に成れるならそれでもいいじゃろう。けどな、阿弥陀様が救いたいと願われた相手は、自分で仏に成れるような立派な人じゃないんじゃ。
海を泳いで渡れる人を救ってあげる必要はないな。海に入るなり溺れてしまうような者を、底まで沈んでしまう者をこそ、救いとりたいと願われておる。誰のことといって、つまりは私らのことじゃ。溺れて沈んでいくしかない私らを救いとりたいと願われて、48願をたてられたんじゃ。
だから、「このわたしが目当てだったんだ、この私のために願いがたてられたのだ」と聞き、信ずる心一つで救われるんじゃよ。これが「信心正因」ということじゃ。

このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。
(この上にどのように思って念仏申すべきかといえば、往生は今の信心にそなわった如来真実のはたらきによってすでに定まったのであって、おたすけ下さったことのかたじけないご恩を報謝するために、自分の命のあるかぎりは報謝のためと思って念仏するのがふさわしいことです)

老僧 最後に、ではどのような思いで念仏するのかについて、報恩の思いで念仏せよと、その心向きを教えてくださっておる。
珍念 報恩ですか。なんかあまり聞きなれないことばですね。どういう意味なんですか?
老僧 恩に報いるということじゃ。恩とは、阿弥陀様が私にかわってご修行くださり、救いの手立てを完成させ迎え取ってくださること。その恩に報いるというと、何かお返しするように思うかもしれないが、命をかけて私を救ってくださるお方に、何をして返せるか、いや、返しようもないな。できることは南無阿弥陀仏と念仏させていただくことだけじゃ。阿弥陀様はお返しのできない私らの至らなさまで考えて、念仏をあたえてくださってるんじゃ。
珍念 念仏するとき、「○○がうまくいきますように」とか「○○がよくなりますように」とか思って念仏しちゃうんですけど、これはまずいんですか?
老僧 自分の欲を満足させるために念仏しようとする人は多いじゃろう。けどそれは浄土真宗の念仏申す心ではないぞ。念仏は、この世の自分中心の欲を満たすための教えじゃあない。阿弥陀様の「お前を救う」という願いを聞くことなんじゃ。それを教えるため、報恩の思いで念仏せよとと教えてくださっている。これが「称名報恩」ということじゃ。いやはや、どこまでも行き届いたご教化なんじゃよ。
※天岸浄圓先生の『御文章ひらがな版を読む』(本願寺出版社)を参考とさせていただきました。