土曜法座 特別講座

 御文章「此方十劫邪義章」

土曜法座特別講座3

御文章「此方十劫邪義章(このほうじっこうじゃぎしょう)」

老僧 珍念や、「十劫安心(じっこうあんじん)」ということを知っておるか?
珍念 「ジッコウ」ですか?親鸞さまが「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」とうたわれていますよね。はるか遠い昔のこと、阿弥陀様がさとりをひらかれた…って、それですか?
老僧 そう、その十劫なんじゃが、下に「安心(あんしん)」という語がつくとちょっと困ったことになる。
珍念 安心ならいいじゃないですか。僕は安心したいなあ。
老僧 ここでいう安心は「あんじん」と読んで、信心のことじゃよ。十劫安心について、蓮如上人は御文章にこう書かれておるぞ。

「十劫正覚(じっこうしょうがく)のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。

老僧 つまり、「十劫の昔に阿弥陀仏は正覚を成就されたのであるから、その時に衆生の往生は決定しており、それを忘れないのが信心(安心)である」と考えている人がいるが、それは大間違いだとおっしゃってる。
珍念 阿弥陀様は十劫の昔にさとりを開かれた、そのお力で私たちが救われる…。これ、先生がいつも私に教えてくれてることですよね。何も間違いないように思いますけど。何が問題なんですか?
老僧 この人は、阿弥陀仏が自分を救ってくれるとは知っていても、その阿弥陀様に頭をさげておらんな。つまり、阿弥陀様や阿弥陀様の救いを知識として知っているだけで、自分は別のところにおいてながめているだけじゃ。それでは信心と言えんのじゃよ。大事なのは自分自身の救いとしていただくこと。ちょっと続きを読んでみようかの。

その信心といふは、『大経(だいきょう)』には三信と説き、『観経(かんぎょう)』には三心といひ、『阿弥陀経』には一心とあらはせり。三経ともにその名かはりたりといへども、そのこころはただ他力の一心をあらはせるこころなり。

老僧 蓮如上人は、浄土三部経を根拠に、浄土真宗の信心は他力の一心であると説かれておる。この他力の一心とは、ただ阿弥陀様の呼び声を聞くこと一つということじゃ。その呼び声は、ほかの誰でもない、私一人にかかっている。「お前を救う、救わずにはおかない」という声を「そうでしたか」と聞く一つで救われるのが浄土真宗の信心なんじゃよ。蓮如上人は、さらに「どのように信じるのか」について説かれておるぞ。

まづもろもろの雑行(ぞうぎょう)をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心にもつぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもつてその身を摂取(せっしゅ)して捨てたまふべからず、これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。

老僧 雑行をさしおきてというのは、さまざまな善行や修行といった自力の行を捨てなさいということ。そしてほかの仏さまや神へ心を向けず、一心に阿弥陀様の仰せにしたがいなさいと。すると、阿弥陀様が光の中に私らをおさめとってくださり、二度と捨てることがない、これこそが他力信心の定まったすがただとおっしゃっておる。
珍念 阿弥陀様の仰せっていわれてもなあ。阿弥陀様、何もお話にならないですし…。
老僧 たしかに、木像や絵像の阿弥陀様は、ものは話さんな。しかし阿弥陀様のおことばは、さまざまなところから私に呼びかけておるぞ。
そのひとつは、お経さまじゃ。お経はお釈迦さまのお説教なんじゃよ。その中で、阿弥陀様が何を考えて仏になられたのか、誰のために修行をされたのかが説かれておる。お経さまを読むならば、それも阿弥陀様の呼び声を聞くことになるんじゃよ。けど、私ら凡夫はなかなか経典を読むことはできん。そこで七高僧や親鸞さま、蓮如さまが世に出られて、これこそが阿弥陀様のお心だと教えを示してくださったんじゃ。
阿弥陀様は、善も行もできない私のために、私に代わって修行をされて仏に成られた。南無阿弥陀仏の名号になられた。南無阿弥陀仏を私に届けることで、その功徳をそのまま私にくださると誓われた。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と私が称える念仏は、御恩報謝の心で称えるものだが、それがそのまま阿弥陀様の呼び声とも言えるんじゃよ。