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あたりまえの私

 先日、あるご門徒さんから「眼が見えることは有難いことですね」というお話しをうかがいました。それは、しばらく前に白内障の手術を受けたときに「歳をとると眼が見えなくなるのはあたりまえだと思っていました。白内障の手術を受けるのもあたりまえのように思っていました。でも考えてみると眼がみえることは当たり前ではなかったのですね」としみじみおっしゃっていました。
 さて、「有難う」の反対語をご存知でしょうか。何と「あたりまえ」という言葉なのです。私たちはまわりにあるすべてがいつの間にか「あたりまえ」で埋め尽くされているのではないでしょうか。生きていることも、健康であることも、手足が動くことも「あたりまえ」だと思っているのです。
 お釈迦様は『法句経』に「人の生を受くるは難くやがて死すべきものの いま生命あるはありがたし」とお示しくださいました。
 人間として生まれることは、容易なことではない、非常に難しいことである。動物や植物などのいのちではなく、人間として生まれることは、とても貴重な機会であると示されています。そして、人間は必ず死に至るけれども、今この命があることは、有り難い、感謝すべきことであると示されています。そして、その命も死に向かっている存在だが、今この命が与えられていることは有難いことなのだ、と示されています。
 法然聖人は
「阿弥陀仏(あみだぶ)と
  十声(とこえ)唱えて
  まどろまん
  永き眠りに
  なりもこそすれ」
と和歌に残されました。
(就寝する時には、南無阿弥陀仏と十遍お唱えしよう。この眠りが、そのまま永き眠りになるかもしれないのだから)
 生も死も同じように有難い御縁と受け止めておられます。
 命をいただいたことは有難いことであり、日々の命も有難いことです。南無阿弥陀仏と称えたすべての者を一人も漏らさずお浄土に救いとっていただける教えに出遭えたことも、大変尊く有難いものです。
 お念仏は「あたりまえ」の日暮らしの私に「有難う」を気付かせていただくよび声であったのです。

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