煩悩を断ぜずして
最近よく「寄り添う」という言葉を耳にします。日々の暮らしのなかで多くの方に自分を理解していただきたい、自分の力になっていただきたい、と誰もが願っていることだと思います。
しかし、「私」は「私」でしか生きてきておりませんし、これからも「私」を脱することは出来ません。
親鸞聖人は比叡山で自力による救いを求めてご修行されましたが「いずれの行も及び難き身」と自力の道では覚りに至ることは出来ないことを受け止められました。そしてこの身の行き着くところは「地獄は一定すみかぞかし」と述べられました。(自力の修行によって救われないわが身は地獄よりほかに行く場所はない)
親鸞聖人は自力によって救われないこの身の行き場所は地獄の他はない、と言われるのです。それが煩悩の中に生きる私たちの姿です。煩悩は私の本質であると言われた方がありましたが、それを「その通りだ」と頷くことができるでしょうか。欲や得にまみれている人のことは救われ難い人に映っても自分自身は大丈夫なのだと思いながら生きています。
そのような私に願いをかけて救おうとされる弥陀の本願にこそさとりの世界が開かれていることを親鸞聖人はよろこばれました。
正信偈に「不断煩悩得涅槃」煩悩を断ぜずして涅槃を得ると述べられて南無阿弥陀仏のおはたらき一つでどんな人も煩悩を断ずることなく救われて仏に成るとお示しくださいました。
煩悩具足である私たちの姿は煩悩を断ち切ることの出来ない姿です。悪業煩悩を造り重ねてこの世に生まれ生きる私なのです。
「御文章」の「信心獲得章」にも
「されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて煩悩を断ぜずして涅槃をうといへるはこのこころなり」と蓮如上人もお示しくださいました。
煩悩の中に生きる私の本当の姿から目をそむけてはいけません。


