蓮如上人の御生涯 15
「吉崎御坊の繁盛」

吉崎に移ると、蓮如上人はさっそく坊舎建立にとりかかったよ。多くの門信徒が積極的に奉仕し、移転の数か月後、文明三(1471)年の7月に吉崎御坊は完成したんだ。
その翌年から加賀(石川)・能登(石川)・越中(富山)はもとより、信越(長野・新潟)・奥羽(東北)などの遠国からも参詣者が集まりだしたの。「道俗男女が群集した」とあるから、そうとうのにぎわいだったことが想像できるね。
蓮如上人は予想外の群集の殺到に驚き、制止しようと試みるよ。というのも、北陸には多くの山岳寺院や他宗寺院があり、吉崎のようすをうかがっていたんだ。もし彼等を刺激したら、また比叡山の時のように弾圧を受けることになりかねないからね。
でも各地からの門徒の群集はとどまることがなく、日ごとに膨れ上がっていったんだ。そして門徒の人達や有力末寺は吉崎御坊の内外に、自分たちの宿泊所を作りだしたよ。これを多屋というんだけど、多屋はまたたくまに立ち並び、そこには僧侶やその妻が住み込み、宿泊する門徒の人達を世話するようになった。さらに参拝者めあての商人たちも集まりだし、商店ができ、問屋町が形成されたよ。
海岸には船着き場ができて、陸路だけでなく船での参拝もできるようになった。南北をつらぬく馬場の大道を通し、南大門、北大門も造られ、ここに一大宗教都市が出来上がったんだ。
その様子を、蓮如上人は「あら不思議や一都に今はなりけり。そもこれは人間のわざとも覚えざりけり。(中略)そのいわれは、仏法不思議の威力なりしゆえなり」と、御文章に記されているよ。
人間の力ではとうていなしえないような巨大な都市づくりが、ここ吉崎の地にまたたくまに成就し大繁盛していることを、「これこそ阿弥陀仏の不思議、仏法不思議の威力だ」と驚かれているんだね。そしてこの吉崎の地で、精力的な布教活動が展開していったんだ。