蓮如上人の御生涯16
「吉崎での教化」

吉崎に移られた蓮如上人は、活発な教化活動を行ったよ。
そのひとつが、「名号本尊の授与」。みんなの家にはお仏壇があるよね。そしてお仏壇の中心には阿弥陀様の絵像がかかっているね。当時は絵像というのはめずらしく、ほとんどが「南無阿弥陀仏」と記した六字の名号本尊だったんだ。
門信徒が爆発的に増える中、家庭で手を合わせるときの礼拝対象が必要になり、蓮如上人は六字の名号本尊を、門信徒の一人ひとりに墨書して与えられたんだ。ただでもお忙しい身なのに、多い時には、一日に200~300もしたためられたというから、驚くよね。上人自身も「自分ほど多くの名号を書いた人は他にいないだろう」とおっしゃったそうだよ。
さらに、多くの「御文章」を制作されたよ。「御文章」というのは浄土真宗のみ教えをわかりやすく記したお手紙さ。寛政二年の「筆始めの御文章」以来、数通しか書かれていなかったんだけど、蓮如上人は吉崎時代の5年間で78通もの御文章を作られたんだ。そして、書かれた御文章は何通にも複写され、各地の寺院、門徒に配られたよ。
当時は文字を読める人が少なかったので、読める人が法話会の時などに声に出して読み、そのことばを聴聞したわけ。蓮如上人の直接のご説法として頭を下げて拝聴する姿は、その時から始まっているんだよ。記された内容は、信心正因・称名報恩・臨終不来迎・平生業成といった、現在も大切にされている教義の要点で、同時に異安心という浄土真宗の信心と異なる教えを厳しく批判されたよ。
もうひとつ、朝夕の日常のおつとめとして、「正信偈和讃」を導入されたよ。それまで本願寺では、善導大師の書かれた「六時礼讃」をお勤めしていたけど、親鸞聖人の書かれた正信偈と、六首の和讃と念仏を唱えるスタイルに改めたんだ。
正信偈は、親鸞聖人の主著「教行信証」に記された漢文のうたで、浄土真宗のみ教えの要が記されているよ。そして和讃は、わかりやすい和文のうたで、そのみ教えをよろこび讃えているんだ。「正信偈和讃」は印刷されて門信徒に配られたよ。こうして、朝夕のお勤めをとおして身近に教えにふれていく、浄土真宗門信徒の生活様式が定められていったんだね。