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蓮如上人の御生涯19
「吉崎周辺の争い」

 もともと京都の応仁の乱などの動乱をさけて吉崎に移られた蓮如上人だったんだけど、この地も安泰というわけではなかったんだ。
 加賀で守護をつとめる富樫政親が弟の幸千代と家督相続をめぐって対立し、激しい争いに発展するよ。蓮如上人と近い関係にあった朝倉孝景は政親と手を結び、幸千代には甲斐八郎という武士が加担し、文明四年(1472)8月、吉崎近辺で政親・朝倉軍対幸千代・甲斐軍の戦いが勃発。当初優勢だった朝倉軍だったけど最後は破れて、政親は越前に逃れたんだ。
 吉崎御坊は当時、北国各地から多くの人が集まり、強固な門徒集団が作られていたよ。富樫政親はそんな吉崎御坊に目をつけ、勢力の挽回をはかるために接触してきたんだ。
 蓮如上人は武士たちの争いにまきこまれるのをさけるため、文明五年(1473)初夏、東国の宗祖遺跡巡拝の旅に出ることにしたよ。上人にとって、3回目の東国旅行になるはずだったんだけど、誰一人迎える者のいなかった一回目の旅行とは大違いで群衆が押し寄せ、毎日5人、3人と死者が出るほどの盛況ぶりになってしまったんだ。上人は越中井波の瑞泉寺までで旅を取りやめ、吉崎に帰られたよ。
 でも、吉崎に集う本願寺門徒の中には政治的野心を持つ人もいて、ここにいるとどうしても武士の争いと無関係ではいられなくなる。上人は文明五年9月、山中温泉に行き難をさけようとされ、京都への上洛も考えられたけど、最終的には吉崎御坊の多屋集の強い願いを聞き入れて10月初め吉崎御坊に戻られるんだ。
 この年、十月三日に記された『御文章』には、「私が三年の間吉崎にとどまったのは、坊主衆・門徒衆が信心決定するようにとの思いからであったが、多屋坊主衆の信心は堅固ならず、最近は武士の争いが影響を及ぼすおそれもあり、その対応に追われることになった。これは自分の本意ではない」と、その当時の心境が綴られているよ。
 門信徒たちの信心決定のためにとこの地に移り教化活動をすすめた上人の心に反して、吉崎周辺の争いはおさまることがなく、上人も本願寺門徒たちも否応なくその渦に巻き込まれていったんだ。

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