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蓮如上人の御生涯21
「吉崎退去」

 加賀で守護をつとめていた富樫政親と弟の幸千代の家督相続をめぐる争いは、吉崎御坊炎上の後も続いていたよ。
 文明六年(1474)七月、本願寺門徒は富樫政親を応援して、幸千代は敗北。政親は加賀の支配権を取り戻したよ。でもこの戦いで、本願寺門徒は2000人が討死したと伝わるから、凄惨な戦いだったのがわかるね。
 政親は戦いにのぞみ、加賀に帰ることができたなら「御門徒の義、疎略(おろそかにあつかうこと)あるべからず」と約束していたのだけど、復帰後は本願寺門徒との関係が険悪になってしまったんだ。
 原因の一端は本願寺側にもあったの。戦の勝利を誇り寺社の年貢を納めず、政親の命令に従わなくなり、さらには自分たちの自治的な地域社会を目指し始めたよ。力のある惣村では当然の動きなんだけど、支配勢力にとってはとんでもないことだよね。ついに文明七年(1475)六月、加賀門徒と政親の間に戦いが始まり、門徒は敗北して富山に逃れたよ。
 この戦いを先導した人物がいるんだ。蓮如上人の信頼を得た弟子、下間安芸蓮崇さ。この人、福井の生まれで、もともと無学だったけど本願寺に帰して、40歳を過ぎてから勉学に励んだよ。とても有能な人で、上人の眼にとまり登用されたんだ。「蓮」の一字を賜ったことからも、信頼の厚さがうかがえるね。
蓮崇は御文章を多く記すことを提案したりして、北陸地方における本願寺教団の勢力拡大に貢献したよ。
 ほかにも、将軍義政の奉行衆になるなど大出世したんだけど、権勢に奢ってしまったのか、さまざまな策謀を企てて戦いを継続させ、最終的に本願寺や蓮如上人を危険な状況においやってしまったんだ。
 事態を収集すべく、蓮如上人は吉崎退去を決意し、急遽仕立てた小舟に乗り込んだんだ。
 この時上人は二首の和歌をよみ吉崎に別れを告げたよ。

終夜(よもすがら) たたくふなばた 吉崎の
 鹿島つづきの 山ぞ恋しき
海人(あまびと)の かがり火つてに こぐ船の
 ゆくえも知らぬ 我身なりけり

 あてのない、心細い船出だったけど、若狭の小浜をめざして船は漕ぎ出されたんだ。

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