土曜法座 特別講座

 御文章「睡眠章」

土曜法座特別講座2

御文章「睡眠章」

珍念 ふぁ~。
老僧 これ珍念、さっきからあくびばかりしてどうしたんじゃ。
珍念 最近寒さがやわらいだせいか、眠くてしょうがないんですよ。特にお昼食べたあとはもう眠くて眠くて。
老僧 この季節は仕方ないのかもしれんのう。蓮如上人も「眠くてたまらないがどうしたことか」とおっしゃってる。珍念、御文章の「睡眠章」(一帖第六通)を開いてみなさい。

 

当年の夏このごろは、なにとやらんことのほか睡眠にをかされて、ねむたく候ふはいかんと案じ候へば、不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候ふ。
(今年の夏は、つねになく眠気をもよおします。その理由を考えますに、まちがいなく往生の時が近づいたためと思われます。)

珍念 え?眠くなるのは、往生の時が近づいたからなんですか?
老僧 蓮如上人はそういただかれてるな。同じように眠さを感じても、「眠い眠い」と嘆いてばかりの私らとは数段レベルが違う。いつも自身の往生を心にかけておられたことが、こんなところからもうかがえるな。
この「往生の時が近づく」というのは、年をとったということでもあるし、体力や気力が衰えてきたということじゃろう。しかしそんな中でも、蓮如上人は「往生の期もいまや来らんと油断なくそのかまへは候ふ」、つまり、いつ往生のときがくるかと油断なく過ごしているとおっしゃってるぞ。さらに、私らの油断を心配されて、こう記されているんじゃ。

明日もしらぬいのちにてこそ候ふに、なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ。命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、御こころえあるべく候ふ。
(明日の知れないいのちです。この世のことは、いのちが尽きれば、すべてむなしいことです。いのちある間に急ぎ疑いをとかなければ、必ず後悔することになります。)

珍念 この世はむなしいんですかねえ。僕はやっぱり楽しみや幸せを求めて生きているし、この世のことはすべてむなしいといわれても、それじゃあ人生、つまんなくなっちゃいますよ。

老僧 人間はみな、楽しみや幸せを求めて生きておる。問題は、何を楽しみとし、何を幸せとしているかじゃ。仲間と集まっておいしい料理を食べて温泉につかれば楽しみに違いないが、いつまでも続くもんじゃない、もし続いたなら逆に嫌になってしまうかもしれん。結婚して子供が育つことは確かに幸せじゃろうが、妻も子供も、いつまでも思い通りにはいかん。反抗もすれば、病気になったり、いのちが尽きてしまうこともある。私らが追いかけているものは、無常なものばかり。だから苦しみから逃れられないんだと、私らの生き方、その方向に疑問を投げかけているんじゃ。

珍念 そうかあ。なくなるものを求めているから、苦しみから逃れられないのか。なんかわかる気がする。

老僧 無常であるのに、目の前の喜び悲しみに引きずられ、泣いたり笑ったりしてるのが私らの人生じゃが、それらもすべていのち終わるときにはむなしいものになってしまうと。
これはちょうど、珍念たちが鬼ごっこしているようなもんじゃ。鬼ごっこしている間はそれに夢中になって、時間がたつのも忘れて遊んでいるな。でも、日が落ちるころにはお母さんが心配して見にくるじゃろ。「もうご飯になるから帰ってきなさい」と。珍念たちにとっては大事な鬼ごっこじゃが、お母さんにとっては夜になったら帰ってきてごはんを食べることが大事。私らにとってはこの世のことが大事に違いないが、阿弥陀さまから見たら我が浄土に帰ってきてくれることが大事なんじゃ。
そして最後に、生きている間に疑いをはらさなきゃいけないと説かれている。疑いをはらすというのは、私らが普段使うようものとはちと違う。自分の力で往生しようという心を離れて、「お前を救う」と呼びかけてくださっている阿弥陀様にしっかりおまかせしなさいよとお勧めくださっているんじゃよ。