蓮如上人の御生涯24
「仏光寺 経豪の帰参」
出口坊に滞在された蓮如上人は、摂津・河内・大和(奈良県)・和泉(大阪府)へと、み教えを広めていったよ。そんな中、仏光寺の第13代住持(門主のこと)経豪(きょうごう)が、蓮如上人に帰依されたんだ。
仏光寺は、近畿から中国・四国まで多くの門徒を持ち、とても盛況だったんだ。その繁栄のもとになったのが、「名帳(みょうちょう)」と「絵系図」。名帳とは僧や門徒の名簿で、絵系図はその名簿の一人ひとりを肖像画にして描き、系図のようにつなげたものなんだけど、ここに名前を書いてもらうことで往生が約束されると理解する人々がいて、大繁盛につながっていたんだ。でも、その仏光寺の門主が蓮如上人に帰依するとなると、これは大事件だよね。
この頃、京都の仏光寺本堂は応仁の乱で焼かれてしまっていて、経豪は摂津の平野というところで暮らしていたんだ。摂津や河内は仏光寺が教えを広めていた場所で、仏光寺門徒が多くいたんだけど、蓮如上人の布教によって多くの門徒が本願寺に移籍してしまったよ。蓮如上人の存在は、仏光寺にとっては脅威だっただろうね。
どんな経緯で経豪が蓮如上人に帰依したのか、詳しくはわからないけど、蓮如上人の説く「信心正因・称名報恩」の教えに共鳴したそうだよ。
でも、ここで黙っていないのが比叡山の衆徒たち。文明十三(1481)年11月、比叡山大講堂に集まった衆徒たちは、「先年山門が本願寺を破却した(寛政の法難のこと)際に、仏光寺は本願寺と別というので許していたが、本堂も再建せず蓮如に与するとはけしからん。そんな仏光寺住持は辞めさせて正しい人物を住持とせよ」と議決し、経豪の追放と、兄弟の中から新しい住持を選ぶことを強要したんだ。
経豪は追放されて本願寺に帰参し、このとき42人もの僧や多くの門徒が経豪と行動をともにしたよ。仏光寺は経豪の弟、経誉が住持になったけど、教団の大部分を失って教勢は衰退してしまったんだ。
蓮如上人は経豪に蓮の一字を与えて「蓮教(れんきょう)」と改称させ、蓮教は山科に興正寺を建てたよ。今、本願寺の左隣にある「興正寺」は、この時から始まったんだ。


