蓮如上人の御生涯26
「山科本願寺建立(2)」
御影堂が完成した山科本願寺だけど、中に安置すべき親鸞聖人のご真影がまだ戻っていなかったんだ。聖人のご真影は、かつての堅田大責の際、比叡山延暦寺衆徒から守るため三井園城寺に預けられていたよ。
文明十二年(1480)、預けたご真影を戻そうと蓮如上人の命を受けて門徒衆が三井寺を訪ねたところ、「真影は返さない。それほど返して欲しかったら人間の生首を2つ持って来い」という、とんでもない返事があったんだ。
聖人のお像は人をよく集め、三井寺もそれにより繁盛していたから手放したくなくて、出来もしない無理難題を押し付けて、本願寺側に諦めさせようとしたんだね。この嫌がらせに蓮如上人はもちろん、末端の門信徒まで心を痛めることになったよ。
この状況の中、手を挙げたのは、琵琶湖で漁を営む源右衛門と源兵衛の親子だったんだ。息子の源兵衛は「如来大悲の恩徳に報いるのは今だ。このようなものの首でも御用にたつならば報謝の万分の一になるだろう」と、父親の源右衛門を説得したよ。まず父に我が首を斬り落とさせ、父がそれを三井寺に持参、三井寺にて父の首を切ってもらうというものだったよ。
源右衛門は息子の首を持参し、「首は2つのはず。もうひとつは?」と問われると、「この首をもって」と頭を下げて差し出したんだ。三井寺はもはやこれまでと観念して、木像と源兵衛の首を返してよこしたんだ。このエピソードは、堅田の光徳寺や等正寺に、源兵衛の首とともに語り継がれているよ。
こうしてご真影をお迎えできたのは、御影堂完成の三ヶ月後、報恩講直前の十一月十八日の夜だったよ。やがて山科本願寺での初めての報恩講が勤まり、多くの門徒が参集したんだ。その喜びを、蓮如上人は、「予身上において本懐満足なにごとかこれにしかんや。諸国門葉のともがらも、おなじく法喜禅悦のおもいをふくまざらんや。」と御文章に記されているよ。
この翌年、文明十三年(1481)に阿弥陀堂が完成し、ここに御影堂と阿弥陀堂が並び建つ両堂形式の伽藍が整ったんだ。本願寺周辺には多数の民家が建ち並び、寺内町が形成され、戦国時代ならではの環濠城塞都市として発展していったよ。


