お念仏を喜ぶ
最近、お同行の高齢化が進み、以前のようにお聴聞に来ることができない方が増えました。車の運転ができなくなって、足腰が悪くなって歩けなくなって、目がよく見えなくなって、ご法話を聞いてもすぐ忘れてしまうようになって等々すべて納得できることばかりです。
ご家族にお聞きできる方は様子がわかりますが、お一人で暮らしている方の中には連絡がつかない方もあります。
いつでもお寺にお参りできること、いつでもお仲間とともにご法義をよろこぶこと、そしていつでもお念仏できることがあたり前ではなかったことを感じています。
さて、先日あるお宅のお仏壇じまいのための遷座法要をおつとめいたしました。
ご両親が亡くなって実家を整理することになり、お仏壇のお勤めを依頼されました。
この仏前で数えることができない程ご家族でお念仏を重ねていただかれたことだろうな、と思いながらお勤めさせていただきました。
長らく大切にされて来られたお仏壇をお閉めになることは事情を察しておりながらも残念に思います。これも私たちが身に受けなければならないことのひとつです。
常に居ますを佛という。
此処に居ますを佛という。
共に居ますを佛という。
この佛を南無阿弥陀仏という。
このいわれを聞いて歓ぶを信心という。
称えて喜ぶを念佛という。
これは浄土真宗の教えを深くよろこばれた岩本月州という方が残された言葉です。
阿弥陀さまがこの私に寄添って「常に」「此処に」「共に」いてくださるおはたらきであることをよろこばれています。
私がどこでどのような姿であっても有難く思うばかりです。
南無阿弥陀仏をとなふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまふなり
『浄土和讃』現世利益讃
(南無阿弥陀仏とお念仏を称える身になれば、すべての世界の数限りない仏様たちが、私の周りを何重にも取り囲んで、喜びながら、いつもいつでも守ってくださるのです)


