蓮如上人の御生涯28
「百姓の持ちたる国」
蓮如上人は文明七年(1475)に吉崎を退去されたけど、そのあとも本願寺門徒の権力者への抵抗は続いていたよ。
文明十三年(1482)、越中国の一郡を支配していた石黒光義は本願寺門徒の勢いを恐れて門徒の本拠、井波瑞泉寺を攻撃し、これをきっかけに大規模な一揆が起こるよ。
当時、瑞泉寺の住持は蓮如上人の次男蓮乗で、その呼びかけにこたえて門徒5千人が集まり、石黒勢を撃破、この郡の支配権を手に入れるんだ。
加賀・越中一帯では、年貢が納められない百姓たちの不満を背景に一揆が広がっていくよ。加賀の守護、富樫氏は内紛が続き支配権が確立できず、公家の中には本願寺に命じて年貢の収納をはかる人も出てきたよ。加賀・越中では政治の中心が定まらず、混沌とした状態が続いていたんだ。
元号が改まった長享元年(1487)、守護の富樫政親が将軍の命で遠征に出ている間に、政親の反対勢力富樫泰高が国内の制圧をはかったよ。政親は急ぎ帰国して城にこもったんだ。本願寺一揆衆は泰高に加勢、翌長享二年5月、加賀・能登・越中などの門徒の一揆衆二十万人が政親の立てこもる高尾城を攻め、わずか数日で城は陥落、政親は自刃に追い込まれ、門徒衆は大勝利をおさめたんだ。
加賀は「百姓等のうちつよく成て、近年は百姓の持ちたる国のように成行さうろう」(『大正三年記』)という状況になったよ。
富樫政親の敗死をきいた将軍足利義尚は驚き怒り、蓮如上人に加賀門徒を破門するよう要求してきたんだ。上人は、「加州の衆を門徒放つべきと仰出され候こと、御身をきらるるよりも、かなしく思召候」とたいへん悲しまれたよ。
この時、自身を「永代の御門徒」と称する細川政元が上人と将軍の間をとりもち、そのおかげで破門は許され叱責ですませることになったんだ。今も伝わる「お叱りの御書」には、「諸門下において、悪行を企つの由、その聞こえあり。言語道断の次第なり」と記され、蓮如上人は「今後このようなことがあったら破門する」という手紙を加賀の門徒に送ることで、解決されたんだ。


