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願ったり叶ったり

 先日、旅行の際に立ち寄った寺院でのことです。私の前にお参りされている方がおられましたが、なかなか順番が進みません。時々、小さな声で何か発しています。しばらくして、それは仏さまに願いを申し上げていることに気が付きました。
 多くの方々は仏さまは私の願いを聞き叶えてくれる存在であると思っているのではないでしょうか。その願いは多種多様です。なぜなら、「私の願い」だからです。「多くの私」が「多くの願い」を持っています。
 「願ったり叶ったり」という言葉があります。この言葉の「たり」という文言は、動作が交互に、あるいは同時に完了していく様子を表します。ですから「願うこと」と「叶うこと」が、ぴったり一つになって届いている状態です。
 病気平癒にお参りしたことで、その病気が治ったらまさに「願ったり叶ったり」としてよろこぶ訳です。
 浄土真宗における「願ったり叶ったり」の主役は、この私ではありません。
 阿弥陀如来さまという仏さまです。阿弥陀さまは、まだ仏さまになる前、法蔵菩薩であったとき、気が遠くなるほど長い時間をかけて「どうすれば、迷いと苦しみから抜け出せない人間を一人残らず救えるだろうか」と、思惟されました。
 そして、「立派な人間になったら救うのではない。煩悩を抱えたまま、罪悪深重のその姿のままで救う。南無阿弥陀仏と私の名前を称えてくれれば、必ずあなたを我が浄土へ迎え、仏にしてみせる」という大いなる願いを建てられました。それが本願です。
 その阿弥陀さまの「あなたを必ず救う」という願いは、五劫の間思惟して兆載永劫という計り知れない修行を経て、すでに「南無阿弥陀仏」という声の仏さまとなって叶っておられます。
 「南無阿弥陀仏」のお念仏は私が仏さまにお願い事をしているのではありません。「私の願い」ではなく、阿弥陀さまの「あなたを救う」という願いが、私の口を借りて、声となって叶って出てくださっている姿なのです。
 阿弥陀さまはすべて見抜いた上で、「そのままでいい、我が願いにまかせよ」と、南無阿弥陀仏となって私の心の中にまで届いてくださっています。
 これこそが、浄土真宗における真の「(阿弥陀さまの)願ったり(がこの私に)叶ったり」の世界であることを喜ばせていただきましょう。

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